樋口一葉の菊坂生活。
樋口一葉は父の死後母妹と共に明治23年旧菊坂町70番地の貸家に移る。ここは安藤坂の歌塾萩の舎、幼時住んだ赤門前の桜木の宿にも近い所だった。ここでの一葉は母たき、妹くにと他人の衣服洗濯や針仕事で生計を立てた。路地の掘抜井戸の水を汲んで使ったとされる。萩の舎での歌作とそれに必要な古歌や古典の研究を上野の図書館にも通い続けた。萩の舎の姉弟子田辺花圃の活躍に刺激され小説家への決意を固める。24年1月『かれ尾花一もと』を執筆。同4月小説記者半井桃水に小説の指導を受け弟子となる。25年3月、同人雑誌「武蔵野」に『闇桜』が掲載され初めて活字となる。続いて『たま襷』『別れ霜』『五月雨』『経づくえ』『うもれ木』『暁月夜』『雪の日』などを発表。また『文学界』同人平田禿木など多くの文人と交流。一葉文学の発祥の地でもある。精神的にも物質的にも行きづまりを感じ生活は商売で維持し心のおもむくままに筆を取ろうと2年11か月の菊坂の生活から、26年7月下谷区竜泉寺町に移って行った。