建物と跡 of 本郷界隈

本郷館001.jpg(1)本郷館

東京大学の正門前の横町を西に入ると広場がある。旧森川町で、岡崎藩主本多家の敷地であった。広場の西側に本多家の祖先を祀る映世神社があった。それでこの広場一帯を宮前といった。広場に入る左側に格子のある古い木造の建物がある。明治未ごろの建造で元加賀蔦の頭の住居であった。旧森川町は石川啄木の蓋平館(現太栄館)などの下宿屋が多く二葉亭四迷・宇野浩二・徳田秋声などの文人も多く住んだ。書生の町、文人の町であった。本郷舘は、明治38年建築で延べ1422平方mの大規模のものである。当時は東大に通う留学生や地方からの資産家の子弟が入り本郷きつての高等下宿であった。現在はアパートになっている。かつての下宿街森川町のシンボルであった。ただ現在取り壊しの計画が有る(2011年8月に解体されました)。

長泉寺001.jpg(2)長泉寺

菊坂より北に上がった場所にあり明治には境内に菊富士ホテルもあったなか
なか趣のあるお寺。境内には石仏や桜の木があり東京ドームシティや文京区役所も見渡せる。

蓋平館001.jpg(3)蓋平館

石川啄木は北海道の放浪から創作生活に入るため上京し赤心舘に下宿した。四か月で下宿代が滞り金田一京助に救われ明治41年9月、この地にあった新築間もない蓋平館別荘に移った。三階の三畳半の一室に入ったが、「富士が見える、富士が見える。」と喜んだという。ここで田園のロマンを題材にした『鳥影』を書き毎日新聞に連載された。また、『明星』廃刊の直後、その派の青年詩人を中心として森鴎外が指導して創刊した文芸雑誌『スバル』の発行名義人となった。北原白秋、木下杢太郎、吉井勇や平野万里などがここに出入りした。前の坂を新坂というがスバルの坂という人もいる。建物は昭和29年焼失。朝日新聞社に入社後、家族を迎えて本郷二丁目の喜之床の二階に移った。(2014年閉館しマンションになりました)

一葉旧居001.jpg(4)樋口一葉旧居

樋口一葉(1872〜96)は父の死後、明治23年の18歳の時、母妹と旧菊坂町70番地の貸家に移る。ここは安藤坂の歌塾萩の舎や幼時住んだ赤門前の桜木の宿にも近く、ここでの2年11か月の一葉は、衣服洗濯や針仕事で生計を立てた。この路地の井戸は一葉が使ったとされている。萩の舎での歌作と古歌や古典の研究をし24年『かれ尾花一もと』を執筆。同4月妹の友人野々宮菊子の紹介で小説記者半井桃水に小説の指導を受け弟子となる。25年同人雑誌「武蔵野」に『闇桜』が掲載され初めて活字となる。続いて『たま襷』『別れ霜』『五月雨』『経づくえ』『うもれ木』『暁月夜』『雪の日』などを発表した。ここは一葉文学の発祥の地でもある。3年弱の菊坂の生活から26年下谷区竜泉寺町に移転する。

法真寺001.jpg(5)法真寺

樋口一葉は明治9年旧本郷6丁目5番地に移り、一葉が4歳から9歳まで5年間住んだ。かなりの庭があって大きな桜の木があり落花は池の面に雪のようであったと、一葉の病床で書いた雑記の中にある。そしてこの家を「桜木の宿」と呼んでなつかしんでいる。樋口家では最も幸福な安定した時代であった。『ゆく雲』の中に「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さま(法真寺)にて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」と幼い日を思い出して、美しい情景を描写している。露坐の観音は今も本堂前にある。

菊水湯001.jpg(6)菊水湯

現在では珍しくなった唐破風建築の銭湯。下町風情漂う菊坂下道沿いにあり今でも地元に密着した社交の場でもある。浴場には雄大な富士山が描かれる。現在の建物は昭和初期に建築され、何と今でも地下水でを汲み上げ薪で湯を沸かしている。お湯の優しさが魅力の銭湯である。(2015年9月30日に廃業しました)

徳田秋声001.jpg(7)徳田秋声旧居

徳田秋声は明治4年金沢市生まれ。明治35年旧表町の伝通院の近くに一戸を構え同39年この地(旧森川町)に移った。そして昭和18年に73歳で亡くなるまで住んだ。秋声の本格的な創作活動はここで始まつた。『新世帯』『黴』『あらくれ』などの数多くの名乍を生み出した。昭和16年6月から9月まで「都新聞」に連載された『縮図』は太平洋戦争開戦直前で干渉を受け作者自ら筆を絶った。川端康成は近代日本最高の小説と評した。自然主義の巨匠であり、私小説の道を開いた。庭の業平竹は同じ金沢出身の室生犀星(詩人・小説家)から贈られたといわれる。旧宅はそのままの姿で解体修理が行われた。

伊勢屋質店001.jpg(8)伊勢屋質店

菊坂下住んでいた樋口一葉は明治26年、生活の立直しのため下谷竜泉寺町に移転して行く。移転前に「此夜さらに伊せ屋がもとにはしりて、あづけ置たるを出し、ふたたび売に出さんとするなど、いとあはただし」とある。移転後も終薦の地(西片)へ移っても緑は切れなかった。死の前年の日記には「時は今まさに初夏也、衣がえも、なさではかなわず、ゆかたなど大方いせやが蔵にあり」とある。一葉の亡くなった時の香典帳に伊勢屋より「金壱円也」とある。伊勢屋の土蔵は一葉当時のままだが店部分は明治40年に改築した。

本郷薬師001.jpg(9)本郷薬師

寛文10年(1670)、真光寺(世田谷に移転)の境内に薬師堂が建立された。伝えによれば寛文年間に奇病が流行したが、この薬師様に祈願したところ病気が治まったとされている。ここで開催された夜市は大変な規模で有名だった。薬師堂は戦災で焼失したが昭和22年に改築され、さらに同53年3月に新築された。

櫻木神社01.jpg(10)櫻木神社

太田道灌が江戸築城の際、京都北野天神を勧請したのが草創。元禄4年に湯島より現在の地へ移転。祭神は学問の神様菅原道真。また夏目漱石の『三四郎』のヒロイン里見美禰子はこのあたりに住んでいた設定。

坪内逍遙旧居001.jpg(11)坪内逍遥旧居跡

坪内逍遙(1859〜1935・小説家)は、明治19年炭団坂のすぐ右上に住んだ。明治20年逍遙が同じ町内に移転後、旧伊予藩主久松氏の育英事業として「常盤会」という寄宿舎となった。俳人正岡子規(1867〜1902)は学生時代三年余ここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。

11宮沢賢治旧居跡.jpg(12)宮沢賢治旧居跡

宮沢賢治(1896〜1933・詩人)は岩手県花巻市から上京した。東京大学赤門前にあった印刷会社で勤務。この時期に間借りした家が平成2年末まで残っていた(現在はマンション)二軒長屋に住んでいた。印刷所での仕事と布教活動と平行して童話、詩歌の創作に専念した。童話集『注文の多い料理店』に収められた『どんぐりと山猫』『かしはばやしの夜』などがこの地で作られたとされる。

本妙寺001.jpg(13)本妙寺跡

遠江国曳馬(現在静岡県浜松市)に創建された寺。1590年の家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし小石川へ移り1636年、小石川の伽藍が全焼し幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)へ移った。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年の大火(明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる。

右京山001.jpg(14)右京山

上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷があった台地。維新後、政府の所有となり陸軍省や文部省の所管となった。文部省用地は大正11年東京市に社会事業用地として払下げられた。富田常雄作『姿三四郎』の小説の中で檜垣源之助との一騎討ちの場はこの右京山。

赤心館001.jpg(15)赤心館碑

石川啄木は文学で身を立てるべく釧路から海路横浜着、明治40年に先輩の金田一京助を頼って赤心舘に下宿した。1ヶ月位の間に小説五篇原稿用紙300枚を書く。『菊池君』『母』『天鵞絨』などである。しかしその売込みに失敗して苦悩の日々が続いた。気持をまぎらわすために数多くの短歌が作られた。
 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる(明治40年6月)
 たわむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず(明治年6月)
その後収入は無く、下宿料を催促され、金田一に救けられて共に近くの旧森川町の下宿(蓋平館)へ移って行った。

菊富士ホテル001.jpg(16)菊富士ホテル碑

羽根田幸之助・菊江夫妻は明治29年、菊坂町の長泉寺境内に下宿屋菊富士楼を開業。明治40年隣地に三階建の別館を建築。大正3年に東京大正博覧会による外人客を見込み、東京ホテル・帝国ホテルに次ぐ菊富士ホテルを増築。地上三階地下一階、屋上に塔の部屋を持つ30室の新舘だった。屋根のイルミネーションが輝き夜の菊坂名物となる。このモダンな高等下宿に宿泊した人たちは、外人客よりいつの間にか作家・芸術家が止宿し名作を生み出すことになる。戦争末期の昭和19年廃業し売却された。翌年東京大空襲で焼失。宇野浩二、尾崎士郎、宇野千代、石川淳、直木三十五、広津和郎、竹久夢二、谷崎潤一郎、宮本百合子、高田保、坂口安吾、大杉栄、伊藤野枝、月形竜之介など多彩な人物が止宿した。

11面観音001.jpg(17)十一面観音菩

本郷薬師(真光寺)の境内に薬師堂が建立された。真光寺は、藤堂高虎によって再建された寺であり、薬師堂とともに十一面観音菩薩も境内に置かれていた。現在は、路地を入ったところ安置されている。十一面観世音は本来慈悲の面を基調に、時に応じ、場に従い、様々な顔を使い分け、人々を救済してくれるために深く信仰の対象となった。

一葉終焉の地01.JPG(18)樋口一葉終焉の地

下谷区竜泉から明治27年にこの地に移った。うなぎ屋の離れで6畳2間と4畳半の3間で、庭にはがけの湧水で造られた池があった。ここの隣の銘酒屋の女性をモデルに『にごりえ』が生まれた。また『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』など代表作もが数々生まれた。しかし、一葉は結核のため24歳の若さでこの地で生涯を終えた。記念碑が建っている。

旅館看板01.JPG(19)日本旅館

本郷には蓋平館(現太栄館)の様な日本旅館が点在しています。昔と違い今は修学旅行や外人観光客の受け入れや、同窓会等の宴会等にも使われています。都心で日本旅館を楽しめます。

旧邸01.JPG(20)長屋門の邸宅

諸井恒平氏(1862~1941)は秩父セメントを創設し社長を務めた。明治39年この地に自邸として主屋、長屋門、煉瓦倉を建築。現在まで住み続けられている。

金田一旧居001.jpg(21)金田一京助旧居

帝国大学卒業の言語学者、金田一京助・春彦氏の旧居は樋口一葉旧居跡より階段り登り、鐙坂に突き当たった左側の場所。

求道会館001.jpg(22)求道会館

浄土真宗大谷派の僧侶近角常観(1870〜1941)は、若き日の欧州留学の体験をふまえ青年学生と起居を共にし自らの信仰体験を語り継ぐ場として学舎をこの地に開く。明治35年から昭和16年に没するまでその経営に心血を注いだ。また広く公衆に向けて信仰を説く場として会館(本堂)を大正4年に建立、その壇上から有縁の者へ語りかけると共に広く社会に対して仏教のあるべき姿を訴えた。ヨーロツパの教会堂建築の空間構成と要所に伝統的な寺社建築のモチーフを用いこれらが融合して独由の宗教空間を作りだしている。設計はヨーロッパ近代建築の新潮流を学び試みてきた武田五一(京都大学建築学科創設者)である。この建築の十年後、老朽化した学舎の建替えも欧州形式で武田が設計した。

燕楽軒001.jpg(23)燕楽軒

この場所には本郷館(勧工場)といわれ陳列店が30軒もあり今で言うスーパーの元祖があった。石川啄木はその作品『天鵞絨(ビロード)』の中で「其処の角には勧工場と云って何品にても売る所があるし、右へいくと三丁目の電車、左へ行くと赤門……」といっている。本郷館が大正の初めに廃業後、芝居小屋になり後に活動写真館や寄席になったがはやらなかった。大正4年には一階が酒場、二・三階がハイカラな西洋料理店『燕楽軒』になった。東大の先生、学生や一高生、菊池寛、久米正雄や宇野浩二等の文人も多く出入りした。大正6年文学を志望して上京した宇野千代はここのウエィトレスとして働きながら小説の勉強をした。昭和に入り不況で廃業、戦後焼跡に米軍払下品を売る店ができた。

ふるさと歴史館001.jpg(24)ふるさと歴史館

平成3年に「台地と坂と水、そして暮らしの舞台」を基本テーマにオープンした。弥生式土器命名の地でもある文京区は江戸時代には武家、町人、寺社の町として栄え明治時代には近代教育発祥の地、文人の地となった。これらの歴史、文化資料を展示している。ちょっとしたタイムスリップを楽しめる。

木造三階建.JPG(25)菊坂沿いの木造三階建

菊坂の伊勢屋質店斜め前の木造三階建て民家は、菊坂と菊坂下道の高低差を考慮し建築されている。

東大戦没者碑001.JPG(26)東京大学戦没同窓生之碑

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)までの15年間における戦争で、東京大学からも多くのは戦没者を出した。調査によりこの戦没者名は1700〜2500人近くで、東大正門前に追悼碑を建立した。

別れの橋跡001.jpg(27)別れの橋跡

本郷3丁目の交差点から赤門寄りの文京センター前(菊坂へ曲がるところ)の本郷通りがややへこんでいる。江戸時代はかなり低かったそこに橋を架し別れの橋と言った。江戸時代に江戸追放の罪の者がこの別れの橋で放たれ南側の坂で涙で送ったから見送り坂、追放者が振り返ったので見返り坂と言った。

Y'SLOGO.gif(28)学者の街・西片

西片は戦災の影響を受けず現在まで続く文京区の高級住宅地。また夏目漱石、谷崎潤一郎、長岡半太郎、木下杢太郎など東京帝大の先生たちが数多く住んだ、「学者の街」としても有名。

かねやす001.jpg(29)かねやす

享保年間、本郷3丁目の過角に口中医師(歯科医)が「かねやす」を開いて乳香散と言う歯磨き粉を販売しこれが大繁盛だったと言う。享保15年に大火で湯島本郷一帯が燃え、大岡越前守は再興家屋は本郷3丁目から南は耐火のため土蔵造り塗や屋にし屋根は板や茅葺きを禁止して蛎殻葺きにする事を命じた。土蔵造りや塗屋の江戸の町並みは本郷3丁目まで続きそれから北の赤門方面の中山道は従来通りの町屋だった。その境目の大きな土蔵造りのかねやすが目立っていた。

大クスノキ02.JPG(30)大クスノキ

樹齢600年。平成3年に司馬遼太郎はこの地を訪れ「その甲斐庄喜右衛門の屋敷跡にいまも一樹で森をおもわせるほどのクスノキがそびえている」と『街道を行く』に書いた。「楠木は残った』甲斐屋敷は大正初め売却、実業家の所有となり大正9年大きな西洋館を建てた。昭和17年中山氏の所有となりどう55年楠木の家を守るためレストラン楠亭を開業。平成9年に改築のため解体されるもシンボルの大楠は残された。その後経営を改め再度レストランを開業。

喜之床001.jpg(31)喜之床

石川啄木は明治41年北海道の放浪生活から上京し旧菊坂町の赤心館に金田一京助を頼って同宿した。4か月後近くの旧森川町の蓋平館別荘に移った。善く42年朝日新聞社の校正係としての定職を得て喜之床という理髪店の二階二間を借りて久し振りに家族揃っての生活が始まった。しかし生活との戦い・嫁・姑のいさかいなど失意の生活が続いた。
はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る(43年)
解けがたき 不和のあひだに身を処して ひとりかなしく今日も怒れり(44年)
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて 妻としたしむ(43年)
苦しい生活の中、啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代であった。喜之床での2年2か月の生活の後、小石川5丁目の貸家へ病気の身を移した。旧家屋は春日通り道路拡幅により昭和53年に解体され犬山市の明治村に移築保存された。

本郷給水所公苑001.jpg(32)本郷給水所公苑

東京市水道局は明治25年減敷地を買収して本郷給水場を建設する。同31年淀橋浄水場より送られた水を貯水する排水池が完成した。昭和26年のポンプ場完成を経て増大する水需要を支えるため東京都水道局は同49年配水池拡張工事を完了。その配水池上部の使用許可を得た文京区が区立公苑に造成。芝生の土手の上に造られ「空中庭園」とも呼ばれる。庭園内には流れや池も造り水鳥等も飛来する。

本郷三丁目駅02.JPG(33)丸の内線・本郷三丁目駅

1954年開業。2004年東京メトロの駅となる。東京地下鉄 調査、1日平均乗降人員51,418人(2008年度)。因に大江戸線とは直接接続はされていない。

シビック03.JPG(34)文京シビックセンター

本庁舎が入居する文京シビックセンターは、文京公会堂の跡地に1999年11月に竣工。地上28階・地下4階、高さ142m。東京23区の区役所の中では最も高い建物。庁舎下層部には1,802席の大ホールを有する文京シビックホールがある。庁舎の25階には展望室があり、無料で東京の景観を楽しむことができる。

後楽園01.JPG(35)東京ドームシティ

1955年に後楽園ゆうえんちとして開場していたが、2003年のラクーアオープンに伴い、4月17日にフリーゲート化されると同時に東京ドームシティアトラクションズ名称に変更された。

講道館001.JPG(36)講道館

柔道家であり、教育家でもある嘉納治五郎が興した柔道の総本山。1882年(明治15年)に嘉納治五郎によって創設され、1909年(明治42年)に財団法人となり、段位の発行、大会開催、講習会、機関誌の発行、書籍の刊行など柔道普及のための諸活動を行っている。

本郷協会01.JPG(37)本弓町教会

弓町本郷教会は、1886年に牧師・海老名弾正氏が、大いなる理想の灯(ともしび)のもと、多くの学生が集まる本郷の地に、講義所として開いたのが始まり。日本のプロテスタント教会としては古い歴史を持つ。

昌清寺001.jpg(38)昌清寺

元和元年(1615)創建。開祖は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母。父二代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿河城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ領地は没収され高崎城に幽閉され自害。忠長死後、忠長夫人お昌の方は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪しお昌の一字をもらい昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。

おりがみ会館001.JPG(39)おりがみ会館

伝統工芸としてのおりがみを通し国内外の親善交流と、広く社会に貢献していく活動を目的として、2005年内閣府認証によるNPO法人国際おりがみ協会が設立。

大江戸本郷.JPG(40)大江戸線・本郷三丁目駅

2000年開設。東京都交通局 -調査、1日平均乗降人員18,740人(2008年度)。

麟祥院001.jpg(41)臨祥院

三代将軍家光の乳母春日局の隠棲の場として寛永元年(1624)に創建され局死後菩提寺となった。春日局は明智光秀の重臣斉藤利三の娘で小早川秀秋の家老稲葉政成に嫁したがその後、家光の乳母になり家光の絶大な敬愛を受け大奥に勢を振るった。麟祥院は局の法名麟祥院殿仁淵了義からなる。墓は無縫塔(卵塔)で四方に穴がが貫通しており死後も政道を正すと言われている。臨祥院の前の通りを春日通りと言う。また麟祥院の中には東洋大学発祥の地の碑も建ち、文京区になる前の本郷区の区役所が所在していた。

安田講堂02.JPG(42)東京大学安田講堂

東京大学安田講堂のイメージは「東大のシンボル」「学生運動の象徴」とよく聞きます。特に中高年の人たちはテレビで映し出された安田講堂屋上から機動隊に火炎瓶を投げつける光景は鮮明に頭の中に残っています。今の安田講堂からは想像もできない光景でした。講堂前の広場地下には巨大な学生食堂もあります。

赤門01.jpg(43)東京大学 赤門

将軍の娘を迎えるときの門で文政10年建立。同年十一代将軍家斉の娘溶姫は前田家13代斉泰に媛入りした。将軍の姫三位(官位)以上の大名に嫁した人、その居所を御守殿(四位以下を御住居)と称した。斉泰が安政2年に中納言に任ぜられ溶姫は御守殿となり門も御住居表御門から御守殿門と称された。切妻造本瓦葦、三間の薬医門で、朱塗りの木部と黒金具、その左右に唐破風造の番所を置く。屋根瓦には葵の紋、梅鉢の紋、まだその意味が解明されていないが大・中・小サイズの学の文様がある。大御門の黒門に対して赤門と呼ばれ赤門は焼けたら再建を許されず加賀蔦(消防隊)が守護した

三四郎池08.jpg(44)東京大学 三四郎池

元和元年(1615)大坂城落城後加賀藩前田家が、現東大の敷地を幕府から賜わった。寛永3年(1626)三代利常の時、三代将軍家光訪問の内命を受け殿舎・庭園の造営にかかった。外様大名として幕府に誠意を示すため大工事が行なわれた。この時に造られた庭園が育徳園と呼ばれ、池は心字池と言う。当時江戸大名庭園中第一と称された。夏目漱石の名作『三四郎』(明治41年)の小川三四郎と里見美禰子との出会いの場がこの池のほとり、心字池は誰いうとなく三四郎池と呼ばれた。

立原道造記念館001.jpg(45)立原道造記念館

立原道造(大正3年生)まれ。第一高等学校時代に一高短歌会の会員として堀辰雄の面識を得て以後師事する。独自の表現スタイルを模索し資質と才能を開花させる。東京帝国大学建築学科を経て建築家の道へ進むが病気のため24歳で急逝した。立原道造の生涯の資料の保存を目的に平成9年開館。

弥生美術館001.jpg(46)弥生美術館/竹久夢二美術館

弥生美術館は、昭和59年弁護士の鹿野琢見によって創設される。鹿野の年少時代、当時人気の挿絵画家・高畠華宵が描いた一枚の絵「さらば故郷!」に強い感銘を受けた。昭和40年、高畠華宵の所在を知り、幼い日の感動を手紙に綴って送り、これがきっかけに二人の親交が始まる。「華宵の会」の発足や展覧会開催などで再び脚光を浴びた華宵だが、翌年78歳で逝去。華宵の著作権を得た鹿野は華宵のコレクションを公開すべく弥生美術館創設を果たした。竹久夢二美術館は平成2年開館。鹿野琢見の夢二コレクションを展示公開しています。かつて本郷には、夢二が滞在した菊富士ホテルがあり都内で夢二作品を鑑賞できる唯一の美術館です。

本郷区役所001.jpg(47)本郷区役所跡

旧東京市には「本郷区」があったが、1947年に小石川区と合併して文京区になった。春日局の墓のある麟祥院の中には文京区になる前の本郷区の区役所が所在していた。

弥生式土器碑001.JPG(48)弥生式土器発掘ゆかりの地碑

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り弥生式土器と名付けられた。しかし、最初の発見地についてははっきりせず、昭和49年の東大浅野キャンパス内の発掘により、この地が最有力とされている。現在弥生式土器発掘ゆかりの地の碑がある。

東大医学部戦没者碑001.JPG(49)東京大学医学部戦没同窓生之碑

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)までの15年間における戦争で、東京大学医学部は同窓生のなかから200名を越える戦没者をだした。この戦没者名と戦没地が克明に記述された追悼碑。

サッカー協会001.JPG(50)日本サッカー協会

2002年に行われた2002 FIFAワールドカップの剰余金を元に、日本サッカー協会(JFA)が2003年にビル購入。JFA事務局の移転と2002年W杯を記念した日本サッカーミュージアムを開設した。同協会は日本国内におけるサッカーの活動の振興を行う統括団体。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会などの公式サッカー大会を主催する協会。プロ・アマの活動を一本化して管理している

霊雲寺001.jpg(51)霊雲寺

五代将軍綱吉の命で深く帰依した浄厳覚彦を開山に迎え将軍家の武運長久の祈願寺として元禄4年創建された。伽藍が整い学寮もあり土塀をめぐらした江戸時代の名刹であった。現在の本堂は昭和51年の再建。

本郷中央協会001.jpg(52)本郷中央教会

正確には日本基督教団本郷中央教会と言う。昭和4年に建てられた鉄筋コンクリート造りの5階建ての教会で礼拝堂は2階部分にある。童謡の「春が来た」「おぼろ月夜」などの作曲で知られる岡野貞一は東京音楽学校卒業後この教会で40年間わたってオルガン奏者を努め聖歌隊を指導した。現在1階は幼稚園になっている。また夏目漱石の三四郎の一場面にも登場する教会でもある。

湯島天神001.jpg(53)湯島天満宮

霊夢により菅原道真を祀る。南北朝時代湯島の郷民が老松のもとに祀ったと伝えられる。太田道灌は社殿を再興、徳川家康は江戸入りのとき神領五石を寄進した。神田明神に次ぐ草分け神として信仰された。本郷台地に位置し上野方面から男坂、女坂にて参拝をするが女坂のすぐ下には久保田万太郎の住んだ家もある。

講安寺001.jpg(54)講安寺

慶長11年に湯島天神下に創建され、その後元和2年に移転した。外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りの本堂(区指定文化財)は、火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵。東大・赤門で有名な将軍家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方は、明治5年77歳で亡くなるまで講安寺に住んでいた。

妻恋神社001.jpg(55)妻恋神社

日本武尊が亡くなった妃を恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号したとされています。初夢で有名。夢枕とは枕の下に敷いて縁起の良い夢を見ようという縁起物の一つ。妻恋神社の夢枕は江戸時代に使われていた版木から複製しためでたい「鶴亀」「宝船」絵柄。

湯島聖堂001.jpg(56)湯島聖堂

元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟。「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。国の史跡に指定されている。

不忍池001.jpg(57)不忍池

上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池。上野恩賜公園の南端に位置し周囲は約2km、全体で約110万m2。北で上野動物園西園、東で京成上野駅、南と西で不忍通りに接している。中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配し、遊歩のための堤で3つの部分に分かれている。一面が蓮で覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。

弁慶画鏡ヶ井戸001.jpg(58)弁慶画鏡ヶ井戸

境稲荷神社境内の北側にある井戸。源義経主従が奥州平泉へ落ちて行く途中、弁慶が見つけて一行が渇きをうるおしたと伝えられている井戸。

横山大観記念館001.jpg(59)横山大観記念館

日本画家、横山大観(1868~1958)の住居でした。大観がこの地に住みはじめたのは明治42年。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがい拡張され、大正8年に現在の広さとなる。昭和20年3月10日の空襲で住居が焼失。昭和29年焼失した住居の土台をそのまま利用して新居が再建され、大観は再び池之端で生活をはじまた。。昭和33年2月に没するまで、ここで数多くの作品を制作した。

岩崎邸01.jpg(60)旧岩崎邸

旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建築。ジョサイア・コンドル(イギリス)によって設計され現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟。木造2階建・地下室付きの洋館はヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせている。

神田明神001.JPG(61)神田明神

外神田二丁目にある神社。正式名称「神田神社」。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。

本郷座001.jpg(62)本郷座跡

明治6年、本郷の地主奥田氏が奥田座を開設、3年後には所在地の名をとり春木座と改名。明治35年には当時の東京市本郷区の区名を採り本郷座と改称した。明治17年ごろには、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎が出演し活況を呈した。本郷座となってからは、新派の創始者川上音二郎一派の『ハムレット』が盛況を極め、新派全盛の原動力となった。大正12年の関東大震災で全焼、翌年バラックの劇場が落成し、2代目市川左団次一座が好評を博したが、明治座などの復興によってしだいにさびれていった。昭和5年からは松竹の映画館となり、第二次大戦であとかたもなくなった。現在は案内板が建っている。

三菱資料館001.jpg(63)三菱史料館

明治3年の三菱創業から昭和20年代の三菱本社解体、新しい三菱グループの発足にいたるまでの経営史料・業務文書等を中心に、三菱関連の史料を幅広く収集し、保管し、公開。所蔵史料数は平成22年3月現在約5万5千点。

ワイズクリエイト01.JPG(64)ワイズクリエイト

ワイズクリエイトは写真を通じて人と人、人と自然との コミュニケーションを確立する事を目的とするフォトオフィス。'99年に東京・中央区で創業し'03年10月よりオフィス並びに大中判カメラ専門ショップを文京区本郷3丁目に移転。自然写真家、山岳写真家による写真セミナー、撮影会の開催、 写真集の出版、写真レンタル、各種制作業務等もよりパワーアップし、写真に関するソフトとハードあらゆる業務を行います。またワイズ大中判写真の会、日本リンホフクラブの運営や、商品、建築、ポートレート撮影など全ての分野での撮影業務にも対応しています。